戦中戦後の漆器産地 Vol.1~4

「戦時中 (昭和16年ごろ)の漆器産地」

戦時中といいますと、私は小学生の頃でした。
お祝事が控えられたため、膳や盆などの漆器はほとんど注文がなくなりました。 若い職人は軍隊に召集され、生産は縮小傾向にありました。
当時、軍事用に金属が不足している中、お寺の鐘や個人が持っている金属類(仏壇の中の装飾物など)を拠出させられる時代でした。軍隊ではそれまで金属性の食器を使っていたため、漆器は新たに軍隊用の食器として利用され始めました。また、軍人用の勲章箱も新たな商品として受注されました。
漆器産地では、このように戦時中も細々ながら漆器を作りつづけていきました。

「戦後(昭和20年ごろ)の漆器産地」

戦後、徐々に元の生活に戻りつつある中で、昭和23年ごろから東京や大阪などの大都市では急速に復興がすすみ、家庭だけでなく、業務用にも漆器のニーズが高まりました。
当時は、今のように輸送手段が整っておらず、すべて貨物鉄道で漆器の荷物を送りました。
東京ですと4、5日の日数を要しました。当時の注文は電報で行われ、「スイワン100イツデルヘンマツ(吸物椀が100個いつ発送できますか?返事を待っています、の意)」などと注文が舞い込み、生産に追われていました。

「戦後(昭和20年ごろ)の漆器の荷造り」

今の荷造りは全て段ボールですが、当時の荷造りは一部で米俵を利用しました。お椀は、まず重ねて紙袋にいれ、藁(わら)束に包んで、それらを幾重にも束ねてまた藁に包み、最後に米俵の形にして、送りました。藁には緩衝材の役割がありました。当時、私は高校生の頃で、その荷造りを手伝っていました。前日に荷造りをして、翌朝、高校に通う途中の駅まで、自転車で運びました。

「昭和30年代に起きた漆器の塗料の変化」

昭和30年頃まで漆器の塗料といえばすべて天然の漆でした。
昭和33年に起きた長崎国旗事件をうけ中国との貿易が一時中止となり、原料の漆の輸入が途絶えたことをうけ、漆に変わる塗料の開発が必要となりました。漆に近い合成塗料として、ウレタン塗料やカシュー塗料などが開発されたのはその頃でした。作業性の良さなど漆には無い合成塗料のよさもありますが、その強さや風合いなどにおいて、漆に優る塗料は今もって開発されていません。
現在、漆は中国から潤沢に供給され、その用途に応じて天然漆と合成塗料が使い分けされています。