当社の歴史と産地の変化 Vol.297~300

「昭和初期(1930年~1950)年」

当社は昨年(2010年)4月に創業80年を迎えました。昭和5年(1930年)に創業した当社の歴史を振り返りながら、越前漆器産地の変化をたどってみたいと思います。
山久漆工の創業者である山本久太郎(1909年生)は、地元の小学校を卒業後、親戚の塗り職人に技術見習いに入り5年間修行した後、21歳のとき独立開業、田舎の冠婚葬祭に使用する八重椀や吸い物椀等を地元の漆器問屋に販売して生計をたてていました。
当時、日本は世界大恐慌の真っ只中で、地方の銀行が倒産し、預金が引き出せない事態などもあったようで「不況で大変な苦労をした」とのちに創業者は語っています。
満州事変、日支事変と戦争が続き、原料の漆や木地の原木の入手も困難になりました。主力商品であるお椀やお膳などの注文も激減しましたが、漆器組合はこの難局打開に奔走し、昭和13年に造幣局より日支事変の兵士に授ける勲章箱(勲章を入れる箱)数万個の受注下命を受け、組合事業として労使協力し製作に当たりました。昭和16年(1941年)太平洋戦争がはじまると、金属類は兵器の材料にするため軍人用の食器は木製の漆器が使われるようになりました。当社をはじめ河和田の漆器同業者が10人程で福井軍需製器株式会社を設立し、 海軍軍人用の食器3点セット(大椀、皿、湯呑み)と盆を横須賀海軍鎮守府に納入しました。 山本久太郎もその一員として産地存続のため尽力しましたが、終戦と同時に勲章箱や食器の特需もなくなり会社は解散しました。
戦後、昭和20年~23年は食料難で食べ物がなくて日本中が食料さがしに苦労した時代でした。その後戦災で廃墟と化した東京、大阪、名古屋など都市の復興が少しずつ進み、昭和25年(1950年)の朝鮮戦争の頃からようやく景気が良くなりはじめました。久太郎の長男、一男(現社長)は昭和26年春、高校を卒業して山久漆工に入社、後継者を目指すこととなりました。
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「昭和中期(1951年~1970)年」

昭和26年(1951年)頃から戦後の復興が進み、飲食業を中心に什器、汁粉椀、吸物椀などの漆器関連の注文が入るようになりました。
漆器産地内にある河和田中学校(現在は統合により廃校)の卒業生は、漆器づくりの工程ごとに分かれる職種(木地、塗り、蒔絵、沈金など)に見習いとして多数就職し、5~6年で1人前になって独立するなど、産地内の生産体制づくりが活発になりました。当時、当社では年1~2人が見習いとして入社し、特に「下地工程」、「上塗工程」を習得しました。
漆器産地では、これまでお膳やお盆の木地は(乾燥で変形しやすい)天然の1枚板を使っていましたが、 この頃から変形しない良質の合板(ベニヤ板など)が開発され、お膳やお盆のほか、重箱の底部分にも活用するようになりました。 また、昭和30年代後半に入ると、漆器にプラスチック素材が使われ始めました。アイテムとしては汁椀、吸物椀が中心でしたが、 次第にお盆や箱など他の形状も出来るようになりました。こうした技術開発を背景に、越前の漆器産地では天然木を加工する木地師から プラスチック成型業者へと転業するケースや、新規で起業する業者が数社ありました。 昭和33年(1958年)、長崎の国旗事件により中国からの漆の輸入が中断した頃から、漆に代わる合成塗料の開発が進められました。 今でも塗料の品質としては天然漆に優るものはありませんが、スプレー塗装ができて乾燥が速く、 効率的で価格が安い合成塗料はプラスチック素材への塗りにも適していました。合成塗料をあえて盆や膳などの木製品に活用し、 木目を活かした器(目ハジキ塗り)として当時のヒット商品になりました。 (第154~155回「時代の変化とヒット商品」ご参照) 合成素材商品が急激に世の中に普及し、産地の風景も少しずつかわってきた昭和45年(1970年)、私が生まれました。

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「昭和後期(1971年~1990)年」

昭和48年(1973年)秋、世の中では第一次オイルショックが発生し、原油価格の大幅な値上がりでトイレットペーパーの買占め騒動などの社会現象がありました。「列島改造ブーム」で地価が急騰、オイルショックによる便乗値上げなどによって急速なインフレになっていました。当社は春から新社屋の建設に着工していましたが、急激な資材の値上がりと資材不足により当時の建設会社は材料調達に相当苦労をしました。昭和49年(1974年)5月、当社の新社屋(現在のもの)が無事完成しました。
昭和50年(1975年ころ)から少しずつ景気が良くなり、大手のデパートは全国の主な県庁所在地に店舗を開設、それにあわせて漆器問屋がデパートを通じて積極的な営業活動を行い漆器が全国にPRされました。いわゆるバブル期と呼ばれる平成2年ごろまで漆器の売上は伸び続けました。
平成2年(1990年)当社ではオリジナルカタログ「一期一会」第1集を創刊しました。当時、漆器産地では1社単独でカタログ製作を行うのはめずらしく、漆器問屋など取引先へ送付して好評を頂き、以後第8集まで刊行しました。

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「平成(1990年代~現在)」

いわゆるバブル期と呼ばれる平成2年(1990年)ごろまで順調に売り上げを伸ばし続けた日本の漆器産地は、バブルの崩壊とともに急激に落ち込んでゆきました。当時、本来の需要というよりも「高級品の代名詞」という勢いで高級漆器が売れていた一面もあったようです。一方で、時代の流れとしてお正月でもスーパーやコンビニで食材が手に入り、インターネットで安く便利にモノが買える時代となり、生活スタイル、モノの買い方が変わってきたことも(少し面倒な印象の)漆器の需要が落ち込んだ要因といえます。漆器産業にとってのこうした厳しい状況に追い討ちをかけるように、今度は漆器産地をさまざまな自然災害が襲いました。平成16年(2004年)7月、福井豪雨が越前の漆器産地を襲い当社も甚大な被害をうけました。平成19年(2007年)3月の能登半島地震では輪島の産地が、今年3月11日の東日本大震災では福島県の会津塗の産地が地震による直接的な被害をうけるとともに全国の漆器業界に景気後退の影を落としました。
こうしてみると平成に入って漆器産業は非常に厳しい現実に直面していますが、日本人が生活の中に取り入れて9000年の歴史がある天然素材「漆」は様々な形でこれからの時代でも残っていく道があると感じています。ただし一番の課題は職人の優れた「技」を中長期的に残し、発展させてゆくことです。他業種の新たな技術も融合しながら、現代感覚でお使いいただける漆器の使い方を消費者にご提案して新たな需要を喚起していくことが、漆器づくりに携わる職人の仕事を継続し、漆器産業を発展させてゆくために、今、必要となっています。(山本泰三)

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(お知らせ)
2005年12月より5年8ヶ月の間、毎週書き続けてきました「掻きます!漆の話」コーナーはこのたび300回を数え、この節目の回にてしばらくの間、お休みすることにいたしました。これまでの300回は地元・越前漆器産地のことや自社の取り組みを中心に、自分なりの視点で漆について書き続けてまいりましたが、今後は私自身があらたな気持ちで奥深い漆の世界を学び、あらためて幅広い視点から漆のことを皆様に発信してゆければと考えております。引き続きよろしくお願いいたします。(山本泰三)

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