越前漆器の歴史 Vol.97~100

「越前漆器のおこりと発展」

今年は、継体大王(天皇)が即位されて1,500年の記念の年にあたります。大王が子供から青年期にかけて越の国(現在の福井県)に滞在され、地域の発展に尽くされたとの言い伝えがあり、県内のゆかりの市や町では、今秋いろいろなイベントが計画されています。
鯖江市河和田地区は、大王が当地に来られたとき大王の冠を漆で修理して差し上げたこと、それで大王が漆器作りを奨励されたことが越前漆器のおこりとされています。当時は三つ重ねの椀が主で、集落の地名から「片山椀(かたやまわん)」とよばれていました。
明治、大正時代になり、職人が板物(膳、盆、重箱など板を加工した器)や蒔絵、沈金等の加飾の技術などを先進地で習得し、現在の越前漆器産地の形が整いました。
次回は、その当時から産地の発展に尽くされた丸山久右衛門さん(故人)の回想録を引用させて頂きながら、先人の労苦を偲びたいと思います。
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「板物の開発」

丸山久右衛門さん(故人)さんは、明治33年生まれで大正時代から漆器製造の技術や、営業などを習得し独立、昭和初期より越前漆器組合の設立に参加し役員や組合長を、戦後も理事長をつとめられました。
椀の産地だった越前で板物(膳、盆、重箱など板を加工した器)を作ることは大変な苦労がありました。木地づくりの道具も異なり、椀は轆轤(ろくろ)を回転させて、鉄の棒を折り曲げた鉋(かんな)をあてて削りますが、板物は板を削る鉋を使います。木材も、椀は栃や欅(けやき)を使いますが、板物は桂、いちょうなどといった具合です。
丸山さんの回想録によれば、大正12年頃、県立の物産館という産業支援、指導機関があり美大出身の吾妻先生、塗りの田中武次郎先生、美大の宮林先生などが派遣され指導を受けたそうです。技術も向上し、積極的に各種の博覧会に出品して好評を得たと記してあります。丸山さんの「総て人間は誠実で責任感の意志により、よい製品を造ることが出来るものと信じます。」という言葉が印象的でした。

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「工賃問題と展覧会」

昭和初期の日本は大不況で、当産地でも地元の銀行が倒産し、漆器業界も大変厳しい状況でした。昭和8年の5月ごろには、工賃をめぐって越前漆器組合と職工との間で大争議になり、組合役員は調停に苦心を重ねられたようです。
昭和10年に組合長になられた丸山久右衛門さん(故人)さんは、「労使関係の摩擦を避けて調和を図る方法はないか」と、この伝統ある越前漆の振興発展を図る一大行事として業者と職工が協力して競技展覧会を開催することを役員会に進言しました。そして県と西野報謝財団に計画書を提出したところ助成金が認められ、競技展覧会の開催が決定。小学校を会場に盛大に挙行されました。これを契機に労使関係は一変して何事の行事も円滑に運営出来たそうです。
その後、越前漆器展覧会は、戦時中は中断したものの今日まで毎年開かれ、技を競って産地の振興発展に資しています。

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「戦時中の受注商品」

昭和6年には満州事変、続く日支事変、大東亜戦と戦時体制になり、当時の若者は戦場に駆り出されて行きました。この非常時には、当然のことながら、お椀やお膳の注文は激減しました。
漆器組合はこの難局打開に奔走し、昭和13年に造幣局より、日支事変の兵士に授ける勲章箱(勲章を入れる箱)数万個の受注下命を受け、組合事業として労使協力し製作に当たりました。
また一方、昭和17年には、兵器優先で金属不足のため金属の食器から木製に代えることになり、海軍工廠(かいぐんこうしょう。海軍の艦船・兵器・弾薬などの製造・修理・購入・実験などをする施設)より、丼椀、盛り皿、湯のみ、の3点セットを受注しました。これには、有志10名で会社を設立し経営に当たりました。福井軍需製器株式会社といい、当社の創業者である山本久太郎もその一員として産地存続のため尽力しました。この会社は敗戦により解散しました。(山本一男)

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