塗りの現場で学ぶ「漆の豆知識」 Vol.289~292

「漆の固化を防ぐ紙製の漆桶」

漆を塗り重ねる漆器職人の工房では、桶(おけ)に入った状態の漆を見ることができます。 漆は漆の木から採る樹液を精製してつくるものですが、塗りの現場にあるものは既に精製されて漆器用として使える状態の漆が 桶に詰められたもの、ということになります (漆の精製についてはVol.233-236)。 一般に日用大工のお店などでは漆を少量から使える「チューブタイプ」のものが販売されていますが、 塗り職人(下地、中塗り、上塗り)が使う漆の量は非常に多いので、「桶」で漆精製の専門店から購入します。
現在、当社の工房で使用している漆の桶の特徴は「紙製」のものが多いことです。 圧縮した紙を素材にして上から柿渋を塗って撥水性を高めた専用の桶になります。 昔は木製のものもあり漆桶をつくる専用の職人もいましたが、コストが高いことから紙製が主流になりました。 近年ではプラスチック製のものも出回っています。
漆は空気中の水分を吸って固まろうとするという性質があります。(Vol.157) そこで漆が空気と接触しないよう油を塗った丈夫な「紙」が漆桶の蓋として使われ、 当社の工房では「蓋紙(ふたがみ)」と呼んでいます。さらに、蓋紙を漆に被せて密閉できるよう、 棒が反発する力を利用した「張輪(はりわ)」と呼ばれる輪状の棒が使われます。昔は竹製でしたが、 今はプラスチック製が多く使われています。
現在、世の中では様々な密閉容器、保存容器が開発されていますが、 漆桶は先人の工夫で開発されて現在もなお使われているシンプルな密閉容器であり、 水分を吸って固まる特長をもつ天然漆ならではの保存容器といえます。
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「さまざまな漆と使用期限」

漆器に対する「漆を塗り重ねるもの」という一般的なイメージから、お客様には「塗り重ねる回数が多いほどよい漆器ですね」というお話をいただきます。漆器のお店では黒や朱など鮮やかな色に塗り上げられた完成品が並んでいるので、「黒や朱などの色漆を何度も塗り重ねている」という印象をもたれているお客様も少なくありません。
実際に漆塗りの工程は大きくわけると下地→中塗り→上塗りとわかれて、それぞれの工程で漆が使われます。 各工程で使われる漆は、1本の漆の木から採取する樹液(乳白色)からゴミなどを取り除いた生漆が原料であることは同じですが、 下地に使う漆は生漆に研の粉や地の粉を混ぜた「下地漆」、下地塗りを完成して研ぎを終えた器に施す中塗りには生漆を精製した 「中塗漆」を使用します。仕上げの上塗りには生漆から精製した黒漆や朱合漆(朱、白などの色粉まぜて色漆を作る為の元の漆)など 上塗りを目的とした「上塗漆」を使います。さらに「上塗漆」には、同じ色でも精製方法によって光沢が異なる 「ツヤ高」「半ツヤ」などの種類があります。それぞれ漆専門の漆屋が精製して(前回紹介した)漆桶に入れ、 塗り職人が購入して使用します。 (精製についてはVol.233-236)。 さまざまな工程や種類をうけもつ職人ほど、 さまざまな種類の漆桶が工房に並びます。(回数のことだけではなく)職人がひとつひとつの工程に時間を かけて大切に漆を塗り重ねた漆器こそ丈夫で美しい「よい漆器」といえる思います。
なお、職人の工房に保管している漆には「腐る」「劣化する」などの使用期限のようなものは特に無く、漆桶にいれて密閉し、冷暗な場所に保管しておけば長期間にわたって使用できることも漆の特徴の1つです。
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「塗り作業後の色や刷毛目の変化」

一般的な絵の具やペンキなどの合成塗料は、塗って乾いた後に色合いや刷毛目などの表情が変化することはありませんが、 天然漆で仕上げ塗りをする職人の工房では、漆を塗った後に色がどんどん変化する様子や、 刷毛塗り直後に見える刷毛目が序々になくなりピンと平らになる様子を見ることができます。この現象は、水分を蒸発させて 乾燥させる絵の具やペンキと異なり、空気中の水分と合成して固まるという漆ならではの性質によるものです。こうした変化は 職人が作業する際の工房の環境(温度や湿度等)によって異なるため、製品の品質を一定に保つためには職人の経験と 勘のようなものがとても重要になります。
漆の中でも特に「白漆」は、工房の中で色の変化をはっきり感じることができる漆です。漆桶に入った液体の状態の白漆は 真っ白ですが、塗ってしばらくすると漆本来の茶褐色が強く現れて濃いベージュ色になり固まってゆきます。完成したあと、 今度はさらに時間をかけてゆっくり漆の茶色が抜けて顔料の白がでるようになり、 ミルクティーのような明るいベージュ色になります。 (白漆製品の変化についてはVol.59 ご参照
漆を塗った直後に見える刷毛目は、塗り作業後にしばらくすると消えてゆきますが、あえて刷毛目を残す技法もあります。 卵白や牛乳などのたんぱく質を漆に混ぜて塗ることで、漆に粘り気ができて、刷毛目のままの表情で固まり製品が完成します。 (牛乳を使った技法についてはVol.91 ご参照
天然漆の色や刷毛目の変化は、塗りの現場でしか見ることができない特徴の一つです。
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「職人の手に漆がついたら」

毎日漆を扱う熟練の職人も、塗りの作業中に漆が手など直接皮膚についてしまうことがあります。 液状の漆はまだ強い成分が生きていて一般の方が触れたらすぐにカブれてしまいますが、 漆を扱う職人には免疫力のようなものがあるので皮膚についてもカブれることはありません。(「漆かぶれ」についてはVol.197-200 ご参照) ただし、油性マジックペンや瞬間接着剤が手についたときと同じように時間がたってしまうと取れにくくなるので、 布切れなどにベンジン等の溶剤をつけてすぐに拭きとる必要があります。製品として完成した漆器は洗剤で洗ったり、 溶剤をつけても色落ちすることはありませんが、皮膚の場合は代謝による入れ替わりがあり、 皮膚上に色が残ったとしても日々の手洗いなどによって少しずつ自然に取れてゆきます。私が幼少のころ、 漆塗りの伝統工芸士だった私の祖父の手が漆でいつも黒っぽい感じだったことを印象的に覚えています。
(山本泰三)
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